Thinkpadのセッティング

 昨日行ったThinkpad X201のセッティングを、今後の備忘録として書いておく。


(1)Pantition Wizard Home Editionをインストール、パーティションの分割、サイズ変更など。Cドライブを70GB、Dドライブを67GB、リカバリ領域を10GBに。
(2)Firefoxをインストール。プロファイルの中身を別のPCから移植。
(3)CCleanerをダウンロード、インストール。不要ソフトの点検およびスタートアップの見直し。
(4)Ad-Aware、Spybot S&D、SpywareBlasterをそれぞれダウンロード、インストール後、実行。
(5)アクセサリー→システムツール→ディスクデフラグツールでスケジュールをオフに。
(6)Defragglerをダウンロード、インストール後、実行。SSDデフラグ
(7)秀丸エディタをダウンロード、インストール。その他→設定内容の保存/復元で、ほかのPCのセッティングを移行。
(8)Comodo Internet Securityをダウンロード、Firewallだけインストール。
(9)Avira Antivirをダウンロード、インストール。アップデート後、ウイルススキャンを実施。


 あとは、OfficeとATOKのインストールぐらいか。

『うみねこのなく頃に散』Episode6

 途中、PCの不調や多忙などにより、中断していた時間もあったが、なんとか読了。以下、ネタバレあり。





 何なんだろうね、この違和感。とりあえず素直に読めばミステリーの作られ方を描いた作品。メタミステリーとでもいうべきか。前作のEpisode5から、探偵小説の文法をしきりに取り出し、そのルールに乗っ取りながら、しかしそれを裏切るようなトリックをゲームマスターの戦人やベアトリーチェたちはしきりに考えようとしている。でも、そのトリックが読者にすんなり納得できるかどうかは疑問。
 特にびっくりしたのは、ヱリカが探偵宣言しない理由。そりゃ確かにそれじゃあ探偵宣言できないけど、でもいくら戦人を追い詰めるためとはいえ、そこまで物語内容に干渉してしまったら、もうトリックも何もないじゃん。また、ヱリカの行動については、動機がさっぱり理解できない。プライドが傷つけられたから? それじゃほとんどただの残忍な愉快犯だって。ミステリーにおいて犯行動機こそもっとも大切なものだと思うのだが、そこにメタレベルの論理を持ってきちゃっていいの? 動機については、戦人を助ける嘉音についても同様。
 読み終わって釈然としない理由は、おそらくその辺なんだろうな。というか、読んでいてこの作品はミステリーとしてはもうどうでもいいな、と思えてきたし、ロジックエラー云々についても深く考える気にはならなかった。どういうトリックが成り立つかは気になるけど。
 読み終わったあとでwikiみたら、嘉音と紗音が……という説があるみたい。なるほどと思う反面、これも今ひとつ釈然としないなあ。これってノックス第10条に反しないのか。だとしたら結局のところ、赤字とか青字とかって言葉遊びに過ぎないんだね(人数の問題とか)。その点でもやはりこの作品をミステリーとして読むべきではないのだろう。



 でも実は、この話を読んでいて一番気になった、というかいろいろ考えさせられたのは、上記のことではなく、自分の目的の成就と他人の死とはどちらが重いか、という問題。漱石『こころ』で先生がKの自殺に罪の意識を感じているのは、やはり死の重さゆえだろう。果たして先生がKの自殺の可能性を少しでも察知していたら、お嬢さんを奪ったりKにひどいことを言ったりしただろうか? 太宰の『走れメロス』は友人を自分の身代わりにしてみずからの肉親の結婚式に向かうが、肉親を祝福することは友人の死の可能性に勝るものなのだろうか。確かに人間は利己的である。しかし他人、特に親しい間柄の死の可能性に対して、人はそこまで利己的になれるものか。嘉音と紗音が同一人物であれ何であれ、そういう人間の本質的、倫理的な部分を、この作品は(あえて「男らしさ」「女らしさ」の問題にすり替えて挑発的に描いているのかもしれないが)見誤っているように思えてならない。……って、だから『うみねこ』に限らず『ひぐらし』にしても、あそこまで残忍なことができるのか(笑)。

『中原中也と詩の近代』

中原中也と詩の近代

中原中也と詩の近代

 初めての単著が3月25日に角川学芸出版より出版されます。学位請求論文をまとめたものです。ちょっと高価なので薦めにくいのですが、書店などでみかけましたら、よければ手にとってみてください(間村俊一さんの装幀がすばらしい!)。
 目次は以下の通りです。

第一部 中原中也と音楽――詩人像の形成を視野に入れつつ――

 第一章 「歌」の内実――中原中也と音楽に関する一つの視角――
 第二章 詩と音楽――洋楽との関わりをめぐって――
 第三章 歌曲・朗読・ラジオ放送――中原中也像の形成に即して――

第二部 中原中也への影響――愛唱をめぐって――

 第一章 愛唱歌の系譜――佐藤春夫中原中也――
 第二章 ホテルの屋根に降る雪は――北原白秋中原中也――
 第三章 「書く」行為の背後にあるもの――宮沢賢治中原中也――

第三部 中原中也と雑誌の関わり(1)――詩篇の再掲を中心に――

 第一章 中原中也、その文学的出発――「朝の歌」から「白痴群」創刊前後まで――
 第二章 中原中也・一九三三年――季刊「四季」への寄稿を中心に――
 第三章 ゆらゆれる「ゆあーん ゆよーん」――「サーカス」の改稿と行の字下げをめぐって――

第四部 中原中也と雑誌の関わり(2)――第二次「四季」との関係について――

 第一章 第二次「四季」創刊前後の中原中也
 第二章 『在りし日の歌』非収録の「四季」発表詩篇からみえてくるもの
 第三章 第二次「四季」にとって中原中也の存在意義とは何だったか

第五部 晩年の中原中也――新発見資料をもとに――

 第一章 「療養日誌」をどう読むか
 第二章 「千葉寺雑記」をどう読むか
 第三章 中原中也の「詩壇」意識――一九三五年前後の詩をめぐる状況と「日本詩人会」「詩人クラブ」「東京詩人クラブ」――

第六部 中原中也研究のこれから――今後の課題――

 第一章 「在りし日の歌」という詩集名はいつ付けられたのか――『新編中原中也全集』と制作時期推定の関係に触れつつ――
 第二章 倦怠と幻想――『山羊の歌』『在りし日の歌』の再検討――

初出一覧
あとがき
索引

ソニーカスタマーサポートとのやりとり

 2009年10月29日付で購入したVAIO Xが、これまで2度修理に出したにもかかわらず、またまた頻繁にフリーズするようになり、しまいにはリカバリーしようと思ったらその途中でフリーズしてしまうようになった。
 これまでの修理内容は、2度ともSSDを交換したとの説明をソニーから受けている。正直、ソニーへの不信感にあふれているが、自分ではもはやどうしようもないので、ツイッターで識者からのアドバイスをいただいた上で、できればPCを交換してもらうことを目指してソニーカスタマーサポートと電話でやりとりした際の記録。


 1回目の電話。こちらからサポートにTEL。これまで2度修理に出した旨および症状を伝えると、BIOSのバージョンの確認などを指示される。いくつかのやりとりののち、予想通り引き取り修理しか手がないと言われる。そこで、ツイッターID @kurochiyoさんのアドバイスを参考に、今まで2度修理に出していること、それでも直っていなかったこと、PCがないと仕事で困ることなどを挙げ、できれば交換してほしいと訴える。当然、すんなりとその要望が通るわけもなく、しばらく話し合いは平行線をたどる。
 30分ほどのやりとりののち、「しかし、今まで2度修理に出して、2度ともSSD交換をしたというのに直らなかったではないか、今回修理に出しても直らなかったとすれば、それこそ時間の無駄」と私。そのとき! サポートの女性がいうには「記録では2度目の修理はリカバリーだけで、SSDは交換していない」とのこと。これにはびっくり! ソニーからの説明では、SSDを交換したという話だったのだが。そこで、先方に録音が残っているはずなので、それを確認してもらうことに。仕事に行く都合があるので30分以内に連絡ほしい、といったんTELを切る。


 しばらくのち、先方より電話。これが2回目のTEL。30分以内に調べるのは難しいとのことで、こちらが電話に出られる時間を伝え、職場に着くころにもう一度TELをもらう約束をする。


 3回目のTEL。録音を確認したところ、やはりリカバリーを行ったという説明を行ったとのこと。ただ、先方の歯切れが悪く、「交換」という言葉も確かに使っているという。こちらはツイッターの記録も残っているし、「またSSDを交換したんですか?」とサポートに言った記憶があるので、たぶんSSDを交換したという誤解をわたしに与えて当然の言い方をしたんだろうなと思うが、その辺はあえて突っ込まず。やはり@kurochiyoさんからのアドバイス通り、とにかくこちらが困っていること、修理に出しても同じような症状が再度起こりうること、正直言ってソニーへの不信感があること、修理に出す時間を無駄だと感じていること、このサポートとのやりとり自体にも時間の無駄を感じていること、本当は買い換えたいがお金がないこと、もちろん返品したいというつもりはないことなどを切々と訴える。サポートの女性はたびたび電話を保留にするが、「今回は修理」という結論は変わらず。ただ、「今回は修理でも、次回同じような症状が起こったら交換」ということも言い始める。
 もうこれ以上は話をしてもムダだな、修理に出すしかないか、と思い始めたところで、最後の要求のつもりで、失礼ながらあなたの上司と話がしたい、と言ってみる。これも予想通り断られたが、あなたの対応に不満を感じているわけでは決してない、ただあなたに決定権がないのもわかる、とにかく一度あなたの上司に困っている状況を説明したいのだと、これまた@kurochiyoのアドバイス通りに要求。すると、しばらく保留ののち、ほかの対応があってすぐには電話に出られないが、あとで上司から電話をかける、今日無理ならば明日あらためて電話をするがそれでよいか、との返事。そこで、これ以上時間をかけたくないのでなるべく今日中に電話をもらいたい、17時以降は用事があり電話に出られない、もし本日中に電話をいただくのが無理ならサポートの方からその旨だけでも電話で伝えてほしい、などのお願いをして、電話を切る。


 夕方、4回目のTEL。上司の方からかと思いきや、さきほどまでと同じサポートの女性。明日の何時ごろに電話をすればいいかという相談をされるのかと思いきや、本来は交換をしていないのだが、今回は2度目の修理時の対応の不手際などもあり、社内での検討の結果、「同時交換」でどうか、という先方からの提案。「同時交換」がどういうものかよくわからなかったので聞いてみると、要するに不具合のある機種と交換で代わりの機種を渡すとのこと。これはありがたい申し出! いろいろ失礼なことや無理を言ったのにこのような対応をしてくださることに感謝を言って、そうしてもらうことにする。


 念のため付け加えておくと、わたしは新品がほしかったわけでも、金を返してほしかったわけでも何でもない。せっかく選んで買った機種を、いつまでも(というわけにはいかないだろうが)不具合なく使いたいだけなのである。2度の修理で、きちんと不具合が解消されていればそれでOKであった。ところが、購入して1年どころか半年も満たないのに通常通りPCが使えなくなってしまったことが問題なのである。
 交換は21日とのこと。今回のやりとりで、失われていたソニーに対する信頼は少し回復。今度こそ不具合が出なければいいが……(問題はそこだ!)。


 最後になるが、不具合に疲れ果ててこのまま泣き寝入りしようと思っていたわたしに、ツイッターでアドバイスや励ましをいただいたみなさん、本当にどうもありがとうございました。m(_ _)m

『うみねこのなく頃に散』Episode5

 ようやくEpisode5が終了。以下、ネタバレ注意。






 Episode5は、要するに冤罪の物語。赤とか青とか、真実とはいいながらもその根拠はむちゃくちゃなものばかり。だって、超自然的な存在が唱える赤は、それを証明する必要がないんだもん。ヱリカは一晩中見張っていた(じゃなくて、壁に耳を当てていた)というけど、それを誰が証明するというのか。そもそも語り手は自分の都合のいいことしか語らず、時には物語内容を捏造する可能性だってあるじゃないか。この話のなかでは(おそらく例外として)名前が挙がっていないけど、クリスティ『アクロイド殺し』の例だってあるわけだしね。
 で、結局のところ、探偵なる人物によって都合よく作られた物語をどう看破するかがこの物語(つまり『うみねこのなく頃に』はメタ物語)なのだが、今のところ手がかりらしい手がかりはなし。あるのだろうけど、それは膨大なテキストのなかに埋もれていて、少なくともわたし自身の眼にはみえてこない。夏妃にかかってきた電話や、蔵臼その他の死体の行方など、まだ解かれていない謎も多いので、真実はまだまだ遠いという印象。犯人に仕立て上げられてしまった夏妃には同情するが、もともと彼女(と蔵臼)が嘘ついていたのが悪いので、その辺りはなんとも。犯人はひとりでなく複数の可能性を疑っているのだが、果たしてどうだろうか。
 それにしても最初、上述のように根拠がむちゃくちゃなものばかりなので、ほとんど推理する気が起こらなかったが、いつの間にやら犯人が誰かだんだん考え始めてしまっているから不思議。戦人の熱にやられたかな?(笑)
 ついでにいえば、こうした物語づくりを自分もまたやっているかもしれないということを、今さらながら再認識。真実を暴くというのは非常に暴力的な行為であり、そうせざるを得ない場合がある反面、そのことによって傷つく人たちがいる。ましてや、自分では真実であると思っていることは、実は真実でないかもしれない。そのことに果たしてどれだけ自覚的でいられるか。難しいが、せめてその可能性だけは忘れないようにしよう、とあらためて自戒した次第。



 ……と、ここまでが本編終了時点での感想。そのあと、恒例のTea partyおよび????で話が大きく動き出して、びっくり。ははあ、その可能性もあったよな、と妙に納得。ようやくアクロイドの名前も出てくる。でも、戦人の立ち位置については微妙。探偵じゃないことは納得できるが、ねえ。
 こういう展開になってくると、やっぱり自分で推理したいと思わないなあ。とにかくさっさと第6話を読んでみよう。

『アバター』

 昨日、3Dの字幕版を、シネプレックス小倉の21時00分からのレイトショーで観る。シネプレックスは、こちらのページによるともっともオススメの3Dの形式らしい。
 メガネを装着し、『トイストーリー』の予告が始まると、会場内から感嘆の声が。たしかに立体的にみえるのは新鮮。でも冷静に考えてみると、この手の3Dって、小学館の「小学○年生」とかでよくあったアレだよね。その意味では新しくも何ともない。
 最初、3Dメガネ対策に着けていった使い捨てコンタクトのせいもあって、ずいぶんと眼が疲れた。また、そのためか、かなり眠かった。でも途中、森に住む動物たちが動き出してからは、その眠気はどこかへ吹き飛び、ついでに眼の疲れも忘れてしまった。
 3Dはたしかに楽しかったが、上映中1箇所だけ、画面からモノが飛び出してきて条件反射的にビクッとなったところがあったものの、それ以外は必須というわけじゃない。実は、3Dじゃなくてもけっこう楽しめそうな気が。でも、3Dであることでそれなりに楽しめたのも事実。まあ、3Dじゃなくてもいいけど、3Dだったらより楽しさが増す、というところか。この3Dでぜひ『ジュラシック・パーク』を観てみたいなあ。

 やっぱり素晴らしかったのは映像。今までアニメーションでしかできなかったことを、CGを使ってやった、という印象。アニメーションとは全然リアリティが違う。スケールの大きい自然、機械&動物たちの動きの機敏さ、どれも迫力あって秀逸。映像を楽しんでいるだけで3時間が過ぎてしまう。それだけでも2000円払う価値あり。

 以下、ネタバレ注意。




 内容のほうは、植民地支配、および科学対自然がテーマで、かなり古典的。そのテーマをそのまま受け取るとイマイチだが、むしろ現実と仮想現実の話ととらえると、もう少し楽しめるかも。
 仮想現実のなかにも、社会があり、生活がある。作中、主人公が「何が現実で、何が非現実だか」といったことををつぶやく場面があるが(セリフは正確でない)、その主人公は最後、現実(そこでの彼は足が不自由)を捨て、思う通りの自分として生きられる仮想現実で生きていく決意をする(そのように決心したのは足のことだけが理由ではないが)。映画のなかでは、その仮想現実はあくまで「現実」として描かれているが、この映画が全編CGを駆使して成り立っていることを考えると意味深い。やっぱり主人公が現実と信じたものは仮想現実に過ぎないのだ。
 昨年、『ネトゲ廃人』という本が話題になった。この本のタイトルからうかがわれるように、今、ネット中毒(特にオンラインゲーム中毒)が社会問題のひとつとなっている。その「廃人」たちは、現実から完全に乖離することができず、だからこそ「廃人」になっていくのだが、近い将来、完全に現実を捨て去り、仮想現実を自分の生きる現実にする人たちが出てくるのだろうなあ。いや、もう出てきているのかもしれない。この映画が示しているのは、そのような生き方を選択したひとりの人物の生である。
 このようにテーマを読み替えて観ると、この映画の内容はほんの少し楽しめるようになるのではないか、と思った。ただし、こうした現実−仮想現実の問題も、すでに多くの作品で描かれているのだ。ぱっと思い出すのはアニメやゲームなどでメディアミックス展開された『.hack』。また、花沢健吾ルサンチマン』なども思い出されるところ。
 まあ、CGを活用したアクションを楽しみましょう。それだけで十分面白いから。