『グラン・トリノ』

 まったくイーストウッドという監督は……。何本、心を震えさせてくれる映画を作れば気がすむのだろう。傑作と前評判の高い『グラン・トリノ』だったが、やはり傑作だった。
 主人公ウォルター(イーストウッド)は、黄色人種を毛嫌いしているポーランド系の白人。とても偏屈な性格で、口がとても悪い。朝鮮戦争で人を殺している。最愛の妻の死後、息子たちの世話にもならず、教会にも行かず、ひとりで暮らしている。隣人のモン族の娘スーの手によって、徐々に心を開いていくウォルター。自分の車(グラン・トリノ)を盗もうとした娘の弟タオにも心を開き、成長を手助けするようになる。
 そんななか、タオがモン族のチンピラによってヤキを入れられるという事件があった。ウォルターのグラン・トリノを盗めなかったという名目で、自分たちの仲間に入ろうとしないタオに嫌がらせをしたのだ。そのことを知って、チンピラに報復に行くウォルター。ちなみにここの場面は最高で、かつてバイオレンスなアクションで慣らしたイーストウッドならではのシーン(ある意味、セルフ・パロディ)。ところが、このことがとんでもない事態を引き起こすことに……。
 以下、ネタバレあり。



 この作品は、暴力は悲劇しか生み出さない、ということを見事に描いていると思う。朝鮮戦争で人を殺したことを何十年も悔いているウォルターの心を知らず、タオは自分の身内を痛めつけたチンピラたちへの報復をウォルターにうながす。「どうして今すぐ報復に行かないんだ!」と血気盛んに訴えるタオ。それに対してウォルターはひとこと。"Thinking!" そう、人間は考えることのできる生き物なのだ。
 人を殺すことの重み。まさに『罪と罰』のテーマなのだが、それをタオに経験させないため、かつチンピラたちに罰を与えるため、ウォルターは考えた。その考えた末の行動がすごいし、ウォルター演じるイーストウッドの迫力がまたすばらしい。みずからが犯した罪に対してずっと裁きを求めていたウォルター。その裁きの機会を、まさかこういう形で手に入れるとは……。
 結末近く、教会でウォルターが懺悔する場面で、ウォルターは息子たちとうまく接することができないことを懺悔する。不器用な生き方しかできなかったウォルターだが、本当はウォルターだって息子たちと仲良くやりたかったのだ。その偏屈な彼の心を開かせたスーという隣家の女性のすばらしさ。スーの祖母は白人を敵視していて、ウォルターもまた黄色人種を毛嫌いしているのだが、ここにはアメリカが抱えている人種問題の複雑さがうかがわれる。そのウォルターのわだかまりを軽々と溶かしてしまったスー。ひとりで暮らしていたウォルターにとって、スーはまさに自分の残り少ない人生を豊かにしてくれる女性であったろう。スーや、その弟タオを守るため、ウォルターはチンピラを暴力によって押さえつけようとした。しかし、その結果として待っていたのは果たして何だったか。まるで武力によって世界を制圧しようとしているアメリカを観ているかのようだ。
 やがて自分にも老いがくる。果たしてそのとき、自分はどのように生きるだろう。人の生き様、そして死に様について、深く考えさせられる。