『チェンジリング』

 この映画を観終えたときの気持ちをことばにするのは、難しい。とにかく、心が震えた、としかいいようがない。それほど、この映画には感動(ということばは使いたくないけど、そうとしか形容することばを知らない)した。

 以下、ネタバレあり。



 アンジェリーナ・ジョリーがいい続けることは至ってシンプル。自分の子どもはまだ生きている可能性があるんだ、ということ。最初、当局は自分たちの手柄のためにまったく別の子どもを彼女に押しつけ、権力によってそのことを納得させ、彼女の口をふさごうとするが、彼女はそれに屈しない。病院に強制収容されて、拷問に近い仕打ちを受けても、彼女はゆるがない。単純にいってしまえば母の子を想う気持ちは何よりも強いということなのだが、その気持ちを国家は押さえつけることができると思っていたのだろうか。
 しかし、彼女にとってはそんなことはどうでもいいことだ。彼女は子どもが助かりさえすればいいのである。彼女が当局を訴えるのもそのことを神父に諭されたからだし(「正しく戦えば不幸な事態に終止符が打てる」)、犯人とおぼしき人物が捕まった後も彼を恨む気持ちはアンジェリーナにはほとんどみられない。
 実際には、彼女の信念はほとんど徒労に終わってしまう。しかし、信念を持ち続けても何も起こらず、報われないかもしれないが、一方で信念を持ち続けなくては何も起こらないのである。自分でみたものだけを信じること。権力や他人のことばに惑わされないこと。最後の"hope"という彼女の台詞に、そんなことをしみじみ感じた。決してハッピーエンドではないのだが、そこには監督イーストウッドにめずらしくわずかながらの希望がある。
 昨日聞いた講演をきっかけに、女性の「信じる」という気持ちや、真実をつかみ取る感覚について考えされられている。この映画もまた、そういうことをしみじみと考えさせてくれた。それにしても前半部分、「チェンジリング」をめぐるアンジェリーナの一連の描写を観ていて、本当に苦しかった。口から手を入れられて胃をぎゅっと握られている感じがした。後半の少年の告白の場面も胃が締め付けられたが、実の子どものことを想うアンジェリーナの気持ちを想像すると、たまらない。こういう映画が、アメリカという世界的に巨大な権力を持った国から発信されたことにも大きな意味がある。やはりイーストウッドは最高だ。