『うみねこのなく頃に散』Episode6

 途中、PCの不調や多忙などにより、中断していた時間もあったが、なんとか読了。以下、ネタバレあり。





 何なんだろうね、この違和感。とりあえず素直に読めばミステリーの作られ方を描いた作品。メタミステリーとでもいうべきか。前作のEpisode5から、探偵小説の文法をしきりに取り出し、そのルールに乗っ取りながら、しかしそれを裏切るようなトリックをゲームマスターの戦人やベアトリーチェたちはしきりに考えようとしている。でも、そのトリックが読者にすんなり納得できるかどうかは疑問。
 特にびっくりしたのは、ヱリカが探偵宣言しない理由。そりゃ確かにそれじゃあ探偵宣言できないけど、でもいくら戦人を追い詰めるためとはいえ、そこまで物語内容に干渉してしまったら、もうトリックも何もないじゃん。また、ヱリカの行動については、動機がさっぱり理解できない。プライドが傷つけられたから? それじゃほとんどただの残忍な愉快犯だって。ミステリーにおいて犯行動機こそもっとも大切なものだと思うのだが、そこにメタレベルの論理を持ってきちゃっていいの? 動機については、戦人を助ける嘉音についても同様。
 読み終わって釈然としない理由は、おそらくその辺なんだろうな。というか、読んでいてこの作品はミステリーとしてはもうどうでもいいな、と思えてきたし、ロジックエラー云々についても深く考える気にはならなかった。どういうトリックが成り立つかは気になるけど。
 読み終わったあとでwikiみたら、嘉音と紗音が……という説があるみたい。なるほどと思う反面、これも今ひとつ釈然としないなあ。これってノックス第10条に反しないのか。だとしたら結局のところ、赤字とか青字とかって言葉遊びに過ぎないんだね(人数の問題とか)。その点でもやはりこの作品をミステリーとして読むべきではないのだろう。



 でも実は、この話を読んでいて一番気になった、というかいろいろ考えさせられたのは、上記のことではなく、自分の目的の成就と他人の死とはどちらが重いか、という問題。漱石『こころ』で先生がKの自殺に罪の意識を感じているのは、やはり死の重さゆえだろう。果たして先生がKの自殺の可能性を少しでも察知していたら、お嬢さんを奪ったりKにひどいことを言ったりしただろうか? 太宰の『走れメロス』は友人を自分の身代わりにしてみずからの肉親の結婚式に向かうが、肉親を祝福することは友人の死の可能性に勝るものなのだろうか。確かに人間は利己的である。しかし他人、特に親しい間柄の死の可能性に対して、人はそこまで利己的になれるものか。嘉音と紗音が同一人物であれ何であれ、そういう人間の本質的、倫理的な部分を、この作品は(あえて「男らしさ」「女らしさ」の問題にすり替えて挑発的に描いているのかもしれないが)見誤っているように思えてならない。……って、だから『うみねこ』に限らず『ひぐらし』にしても、あそこまで残忍なことができるのか(笑)。